原民喜『鎮魂歌』抜粋その2。
僕の足。突然頭上に暗黒が滑り墜ちた瞬間、僕の足はよろめきながら、僕を支へてくれた。
僕の足。僕の足。僕のこの足。
恐しい日々だつた。滅茶苦茶の時だつた。
僕の足は火の上を走り廻つた。水際を走りまわつた。
悲しい路を歩きつづけた。ひだるい長い路を歩きつづけた。
真暗な長いひだるい悲しい夜の路を歩きとほした。
生きるために歩きつづけた。
生きてゆくことができるのかしらと僕は星空にむかつて訊ねてみた。
自分のために生きるな。死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。
僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。
僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。
お前たちは星だつた。お前たちは花だつた。
久しい久しい昔から僕が知つてゐるものだつた。
僕は歩いた。僕の足は僕を支へた。
僕の眼の奥に涙が溜るとき、僕は人間の眼がこちらを見るのを感じる。
人間の眼。あのとき、細い細い糸のやうに細い眼が僕を見た。
まつ黒にまつ黒にふくれ上がつた顔に眼は絹糸のやうに細かつた。
河原にずらりと並んでゐる異形の重傷者の眼が、傷ついてゐない人間を不思議さうに振りむいて眺めた。
不思議さうに、不思議さうに、何もかも不思議さうな、ふらふらの、揺れかへる、揺れかへつた後の、また揺れかへりの、おそろしいものに視入ってゐる眼だ。